昭和47年10月12日 朝の御理解



 御理解 第34節
 「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」

 神の言う通りにする者は少ない、みな、帰ってから自分のよいようにする。なかなか御教を頂いておりましても、それと教えを徹底して実行するという事が難しい。難しいけれども、神の一言は千両の金にも替えられないとあるのですから、その神の一言をです。やはり徹して頂くという事が、信心だと、私は思います。皆さんも、頂いてはおる。けれども、いよいよのところに徹していない。徹底していない。そこんところにです。極端な例を言うと、神を恨むような事にまでなりかねないのです。
 お参りしたばってん、おかげ頂ききらじゃったまで位ならよかばってん。返って神様を恨むような事。これじゃ神も立ち行き、氏子も立ち行くという事にならん。神様も立ち行って下さりゃ。氏子も立ち行く事の為にはその一言をです。私は徹底する事だと思う。徹し抜く事だと思う信心とは。例えば十のものが八つまで位は、神の言う通りにしよろうけれども、後の二つがね、疎かになったり、辛抱しきれなかったりしておる。だからそれもこれもという事じゃない。一言でも徹底するという事なんだ。
 神様が教えて下さったのを一言。昨日も壱岐の末永先生が、御本部の御大祭の帰りに御信者さんを引き連れてここへ参拝されました。それでここでいろいろと御理解を頂かれ、そして、私が行く所へ皆さんついてみえて、一言でもお話を聞こう一言でもお話を聞こうという訳なんです。博多に朝の三時半に着かれた。それで待合所は夜中は鍵がかかって、中に入れないそうですよね。寒いのにホームで待たせて貰う。それで五時十五分の久留米行きに乗って、こちらへおかげを頂いたと、こう言われる。
 疲れておられる訳ですよね。それでも折角合楽まで足を伸ばさせて頂いたのだから、何か頂いて帰らにゃ、何か頂いて帰らにゃと、末永先生が信者さん方に言われたんでしょうね。それで、丁度朝の御理解の終っておるところへ参って来ましたから、改めて御理解を頂いた。それで又朝の食事ども上げまして、私は茶の間に控えておりましたら、あちらへ今度はみんなでやってみえてから、何か一言でも皆さん、頂いておかなきゃいけんよと言うて言われる。けれども私はお話を致しませんでした。
 今日の朝の御理解を頂いて、皆さん何か一言でもよいから、心に残る事があったですかと、私が申しましたらそれぞれにです、昨日の御理解の中から頂きどころは違うけれども、やはり一所をしっかり頂いておられる。それだけ頂いておられれば結構。それだけ頂いて、それを行じられたら、おかげを受けますよ。それだけで合楽に足を伸ばさせて頂いただけのおかげは受けますよと言うて、お話はせずに只お茶ども上げただけでしたけれどもです。そうなんです。沢山知るとか覚えるとかじゃないです。
 その一言を有難いと思う事を徹する事です。日々の御理解の中にそれは信心の程度によって、頂きどころが違いましょう。私はここと思うて強調しておりましても、そこが意味は分からないけれども、只私が枝葉と思うて話したところでも、有難いと思うたらそれでいいのです。それを今日一日のあれもこれもじゃないです。一言でいいです徹底させて頂く、おかげを蒙らせて頂いたら、おかげは舟にも車にも積めぬ程の神徳とおっしゃる。御利益が頂けるとはおっしゃってない。
 御利益の頂けれる元であるところの、神徳というおかげを受けると仰っておられる。それが車にも舟にも積めぬ程の事になってくるのですから、おかげを受けなければいけませんですね徹し抜くという事。福岡の三代の吉木辰次郎先生のお話を随分頂きました。私は先生のお話を、話も大変名人であられましたが、内容を持っておられましたから、いつ頂いても有難いお話でした。中に極楽というのはね地獄の釜の底を踏み抜いた向こうにしかないぞとおっしゃっておられました。
 極楽と言や只お風呂にども入ってあぁ極楽極楽、と言った様な中じゃない。それは本当の極楽じゃないて。是が地獄の真ん中だろうかと思う様な中にあってです。そこを頂き抜かせて頂いてそれこそ、一生懸命の一心をもって神様に。一心とは迷いのない事ぞとここでは教えておられますように。神様の教えて下さるその事を一心と信じて、これが今の修行の真っ最中だという。どんなに苦しい時でもそういう思いを致しまして、そこを頂き抜く、地獄の釜の底を踏み抜いた向こうに極楽はあるもんだと。
 蓮のうてなの上ではぁ有難い有難い、ここが極楽じゃろうかと言いよったらもう一週間もしたら飽くじゃろうと仰っておった。そういう極楽ばかりが続いておったら。さぁ今日はお芝居見物、明日はどこどこ温泉、さぁ明日はどこどこに美味しいもん食べに行こう、と言った様な事がずうっと続いておったらです。本当に飽き飽きしてくるでしょう。極楽というものは、決してそういう所にはない。そのもうひとつ向こうの方にあるんだと教えておられた。これも何回となしに聞かせて頂いた。
 吉木先生のお話の中に、これは関東関西で、大変おかげを受けられた人の話をね、これは初代の吉木先生。吉木栄蔵先生が一つ話のようにしてお話をしておられたという話。一つ話という位だから、いつもその話をなさっておったという事でしょう。御自身が四神金光様から、自分のような無学の者が、福岡という学者の多い町に布教させて頂いたんでは、どうだろうかと心配の余りに、お伺いなさったところが、「馬鹿と阿呆で道を開け」と四神様はおっしゃった。
 それは大変な難儀苦労をなさいました。お亡くなりになる迄月に一週間の断食を続けられたという。表行にかけたら、吉木栄蔵の右に出る者はおるまいと、四神様が仰せられる程しの厳しい修行をなさった方である。ですからそういう修行に徹せられる事と同時に、馬鹿と阿呆という事に徹せられた所から、現在の福岡の御比礼があると思うですね。それこそ死ぬところ迄も自決されると言う所迄も、徹底されたんですから。
 そういう訳ですから、馬鹿と阿呆になりきっておるという話をです。こよなく有難いものとして、頂いておられたに違いはない。だから、この話を一つ話のようにしておられたと、三代目の吉木先生は、私共に教えておられた。初代がこれはもう一つ話のように。善導寺の教会が、善導寺の奥様のお里ですから、御大祭たんびに必ず、吉木先生のお説教でした。ですからいつも同じお話ですけれども、信心の内容が深めておいでられるですから、確かに有難かった。何辺頂いても有難かった。
 しかも今私がお話しょうと思うお話なんかは、それこそ何回聞いたか分からない。今日はあの話がなかったと思うと、御直会の時一杯機嫌でやってみえてから、私共が前に座って、又その話をなさりよりました。けれどもやはり有難かったです。それは初代が徹底された事と同じ意味合いの事だったからだろうと思うのです。これが関西のおかげの頂き頭と言うて、お話をしておられたという事ですがです。
 大阪のある御信者の中に、アンマさんがおられた。娘さんと二人暮らしであった。まぁ細々とした、生活だったでしょうね、親子二人アンマを、なさりながらの生活ですから。それで、いつもお得意さん回りをなさる中に、大変な分限者金満家のお家で、大変気に入られてしかも、そこの御隠居さんの、碁の相手をなさるので、大変大事にされておられたという事です。その日もやはり隠居所の方へ通されて、隠居さんの相手をして、碁をなさっておられた。
 そして終って帰らせて頂いたところが、すぐ使いの者が来て直ぐ来てくれという事である。何事だろうかと思うて行かれますと、今迄とはちょっと雰囲気が違う。あんたが日頃色々な事で困っておるという事も、よく知っておる。丁度二人で碁をなさっておられる時にそんな金満家ですから、ある方にお金を貸しておられた。そのお金を元利揃えて支払いに見えた、隠居さんの所へ。それで二人で碁をさしておられますから、碁に熱中しておりますから、その受け取った金をです。
 直ぐそこに置いたなりで碁を続けておった。そして碁が終った後に気が付かれた所がその金がないというのである。だから誰もここには入って来ないのだからです。あのアンマが日頃裕福でない事を知っておられますから、貪欲が起きたのだろうと、あれが持って行かなきゃ持って行く者はおらんと言うのて、呼び付けられて内々で向こうから正直にこうだったと言や、まぁこらえてやろうと言う所で内々で話をなさった。
 ところが実を言うたらそれこそ寝耳に水である。身に覚えのない事である。それでこれだけ日頃お世話になっておるお家に、いくら貧乏致しましてもそう言う様な事を、しかも私は、金光様の御信心をさせて頂いておるから、そういう事だけは、決して御隠居さん致しやしませんと言われるけれどもです。片一方が聞かれない。兎に角お前がそんな事言うなら、警察の問題にする。
 だからもう暫く時間をやるから、家で帰ってよく考えてもう一遍出て来い。それ迄警察には言わんからという事であった。そこで帰られてから一人娘である所の娘さんに、その話をされた所がです。あの気性あの事で兎に角、私が盗ったという事を思い込んで、言い張られるのだから、また警察にそれを言われたところで、成程誰も来とらん。私だけしか行っとらんという事であれば、やはり嫌疑は自分にかかってくるに違いはないと言うて、まぁ親子で話されたら、娘さんがですね。
 んならお父さんそれはひとつ払いなさいとこう言う。そう言われるならです。そんならそれを払わせて頂いて、向こうが気がすむならという事だった。払うと言うた所でこういう貧乏所帯でどうして払うかと。昔は金を作ると言や、娘がおりゃ娘が苦界に身を沈める。それで纏まった金を作るというのが、まあ貧乏人の金作りと言うたらそんな事だ。他に作りようがない。愈々思い惑われたけれどもです。
 娘がそう言うてくれるから、そんならここはひとつ本気で人が馬鹿と言うても、阿呆と言うても、いや泥棒だと言うてもです。身に覚えのない事だけれどもです。ここは泥棒と言われるなりに、教えをいわば徹し行じられた訳です。それからとうとう遊郭に身を沈められる事になった。それからです暫く日にちが過ってからの事。是非また出てくれと言うてから隠居さんの所から使いがあった。今度は前とは違う訳です。それこそ丁重にお迎えが来た。やられると隠居さんが、それこそ下座に手を付いて謝られた。
 あん時に私がああして言い張った。実は今日誰々さんが碁を打ちに来たから、そんなら一番やりましょうかと言うて、碁石を引っ繰り返したところが、碁石の底にお金が入っておったと。碁に夢中であった。持って来た金をそこに置いたというのが、碁石の坪の中に入れてあった。よもや碁石の底に入っとるとは思わんものですから、その人が盗ったとばかり思うておったが、とんだ濡れ衣を着せてすまん事であったと。それは分かってよかったですけれども。
 実はこうこうあの金は、取り返しのつかない事になってしまって、こういう事で娘が作ってくれた金であったという事を話されましたから、もうそれこそびっくりされた。そして、私が話をつけるからと言うて、早速請け出された。そして改めてまた願われてそこの一人息子さんの嫁さんに所望されて、その大身代家の嫁さんになられたというお話なんです。本当に教えを頂き徹せられた訳です。その先にです、夢にも思わないようなおかげ、ここのところがどうでしょうかね。
 神の言う事は、道に落としてしまい、我が勝手にして、神を恨むような者があると。それを中途半端なところであったら、どうでしょうか。私は盗らん、いやお前が盗った。そんなら警察問題にする。さあして下さいと。例えば、警察問題になったら、それこそ、これ程信心しておるのに、神様も、他所を見てござるとじゃろうかと、神様を恨まなければならない事になる。
 これは、極端な話ですけれどもです。やはりこれは実話として、その当時、関東関西のおかげの頂き頭、おかげというものを、相撲の番付けにするならばです。両横綱を作るならば、これは関西の横綱だと言われる程しのおかげ話として、吉木栄蔵先生がなさっておられたという事。御自身も、やはりそんなら馬鹿と阿呆で道を開けという、四神様の御教に徹しられて、現在の福岡教会の御比礼がある。徹しられる
 御教にも、例え泥棒だと言われても、腹を立てるなと乞食だと言われても、腹を立てるなと。貰うて歩かなければよい。人の物を盗らなければよい。そこにもう一つある。「心の内を改める事が第一なり」とあります。ですから人に馬鹿と言われても、阿呆と言われてもです。いやそれが泥棒と言われてもです。腹を立てなと。神が顔を洗うてやると仰せられるからです。ただ神様がいつか顔はゆすいで下さろうだけではなくて、私はそういう時にです。人から悪口でも言われるような時にはです。
 本気で自分自身を見極める時だと思うです。あるはあるは自分の心の中に、乞食根性がある、泥棒根性がある。もちろん厳密に自分の心というものを、本気で眺めさせて頂く時にです。人から悪口を言われるはずだというようなものが内容にある。そこから心の内を改める事が第一だという風に、教えられたんじゃないでしょうか、ここでは。そして教えに一言でもよいから、徹し抜く事だと。神の言う事を頂き抜く事だ。十のものを八つ九つまで行ってもです。
 向こうの方におかげがあってもです、それこそ地獄の釜の底を踏み抜いた向こうにしか極楽がないように、そこんところを辛抱し抜かせて頂いて、おかげを頂いてゆかねばならん。それに徹する事なのだ。昨夜の御祈念の後に、桜井先生達夫婦が、ここでお届けをされます。二人にお話をした事でした。今日ここで私は「信心辛抱を楽しく」と頂いた。ただ信心辛抱だけじゃない。それも有難い。
 もうそれこそ血の涙が出るようであってもです。それをずっと、金光様金光様とおすがりして辛抱する事も有難いけれども、血の涙が出る程しの事だけれどもです。御神慮というものを、少しでも分からせて頂いたら、いやぁ神様はこげな修行をさせなさるが、例えば、本当に泥棒した事もないのに、身に覚えがない事だけれども、言うならば、満座の中で恥をかかせられるような事があっても、こういう修行をさせなさるところを見ると、その先のおかげが楽しゅうならなければいけないという事。
 神様は、それ程に間違いのない神様である事を、信じておかげを頂かにゃいけんです。神様がどういう修行を求め給うてもです。とてもこの修行の後には、それは苦しいです、修行させられる時には。けれどもこの修行を成就したならば、神様が、どういうおかげを下さる思いじゃろうかと思うたら、心が躍ってくる有難い心で。信心辛抱を楽しゅうという御理解を頂いた昨夜。それ、だからこそ徹しられるのです。徹し抜かれるのです。その徹し抜いたそこにです。神様の真意があった御神愛があった。
 神様は、こういうおかげを下さろう事の為に、こういう、無茶な非道な、修行をさせられたんだなと。だから、そこを徹底するという事。十のものを八つ迄は、神様の言う通りにするけれども、あと二つのところで我がよいようにして、本当なおかげにならない。そして、神を恨むような事になっては、神様も立ち行かん、私共も、尚立ち行かない事になるでしょう。信心とはそこのところを、信心辛抱が、させて頂きよいように教徒して下さる、その気になったら。
 昨日もある方が福岡の秋永由喜子さんのお導きで、お参りして来た。聞かせてもらうと、本当にもらい涙が出る程しの深刻な問題である。けれども今のままではおかげにならんと言う。そこで、ここでひとつ回れ右をしなければいけません。けれども向こうの方へ突き抜けたい。突き抜けられる道があるならばです。突き抜けたいという願いである。それは丁度、透明ガラスにトンボが止まっておるようなものだ。向こうの方へ行こうと思うて、こう逆たんぼうってる訳だけれども。
 向こうは見とるけれども、ガラスですから。ここは回れ右するより他に手はない。それを知らずに兎に角どうぞ神様、このガラスを突き抜けさせて下さいと言った様な願いなんです。そこで回れ右をするという事は今のその方の為には、それこそ死んだ方がましというごたる問題がある訳なんです。回れ右をするという事は。そこで私は申しました。そういう苦しい時にはです。今仕事の方も止めておられるならば、福岡の方からなら便もある事じゃから、お参りしておいで苦しい時には一人でも参っておいでと。
 部屋に暑い太陽の光が入ってくる。そん時には、カーテンを閉めると、その陽を遮る事が出来るでしょうが。あんたがどういう苦しみを持って来てもです。そん時にカーテンを、私が引いて差し上げるようなおかげを頂いたら、また少しは心が楽になって、帰る事が出来る。また苦しゅうなったら、また出ておいでと。そういう暑い陽が、いつもあなたの上にばかり照る事はない。
 けれども照る苦しい時には、神様のおかげを頂いてお取次を頂いて、カーテンを閉めさせて頂くようなお繰り合わせを頂いて行きよるうちには、涼しゅうもなろう。影にもなってくるんだと。ここは苦しかろうけれども、一つ回れ右するべきだと言うて、お話をした事でしたけれどね。ですからその辺のところを行たり来たりしょったんではです。また突き抜けられるはずはないのだから、このガラスは。いわゆる神の言う事を千両の金にも替え難い、神様のお一言というものをです、頂いて帰るという事。
 しかもねそれが有難うなり、楽しゅうなるという程しのところ迄、お互いの信心を進めさせて頂くからこそです。それを徹し抜く事が出来るのです。教祖様の御教お言葉というものを、あれもこれも徹し抜くという事は中々、いわゆる神の言う通りにする者は、いよいよ少なくて、ないと言うてもよい位でしょうけれども。そんなら今日一日今日の御教のどこかでも、これに徹するという稽古。
 ひとつの問題があるなら、その問題に対して頂く御理解をです。本気でそれは血の涙が出るような事かもしれないけれどもです。それを徹し抜かせて頂くうちにです。生れてくるのが体験である。ですからどういう苦しい修行の時であっても、この修行を頂き抜いた暁の事を思うたら、心が有難うなってくる晴れてくる嬉しゅうなってくる。私は今日は本当にここのところを思うのですけれども。お互いが確かにお参りでもさせて頂いておれば、十のものは八つ九つまで位は、皆さんが行じておられると私は思うです。
 けれども、もう一つというところでです。私は失敗しておられるのじゃないかと思うです。その、もう一つ向こうの方に、御神意があるのである。その向こうに、極楽があるのである。為には、一つここのところを、徹し抜かなければいけん。これだけ馬鹿になった、もうこれから先は馬鹿になられんと言うたら、馬鹿に徹したという事にはなれんのです。もうこれは辛抱が出来ん。人間の辛抱にも限界がある。そういう時にこそ、辛抱するのが辛抱なんです。
 それもあなた一人でせろというのじゃない。それこそ神様も一緒に辛抱して下さる。氏子の喜びは神の喜びであると同時に、氏子の苦しみはそのまま神の苦しみと仰せられるのですから。神様も共に修行しておって下さるんだ、苦労しておって下さるんだと思うたら、神様相すみませんと言う以外ないのだ。そこからです神に一心とは迷いのない事、という事をです。信じさせて頂けれるおかげ。同時に心の内を改める事が第一と仰せられる。そういう血の涙が出る程しの難儀、又はいろんな難儀を感ずる時ほどしにです。
 人間というものは、いよいよそれが、反対の方に、とことんおかげを落としていく人とです。そういう難儀に直面した時にです。本気で改まる事が第一なりという、改まるところを改まらせて頂いて、御徳を受けていくという人がある訳です。そこから受けられるおかげ。成程神の一言は千両の金にも替え難い。おかげは舟にも車にも積めぬ程の神徳がある。ただ願っておかげを頂いたというのはそれだけの事。
 けれどもその事によって、御神徳を頂くというおかげを頂いたら、もうそれは舟にも車にも積めぬ程の、所謂限りないおかげに恵まれる事が出来るという訳であります。教祖様の御教の徹底して、あれもこれもという訳には参りませんけれどもです。せめてです吉木先生のそのお話じゃないけれども。又は大阪での体験談ではないですけれどもです。その事に徹する所から、言うならば大変な財産家に自分の娘をやれれる。
 また娘もそういう財産家に、一躍おかげが頂けれるような、それこそ夢にも思わないようなおかげが、展開してくる訳であります。神様はそういう、神様がこういうおかげを渡したいと思われるおかげを、私共が頂き抜いた時に神様の喜びがある。また私共も夢にも思わんおかげとして、有難いおかげになってくる訳です。信心とは結局徹する事だ。徹し抜く事だと。そこを神様におすがりし抜いての、信心辛抱ですから信心辛抱を楽しゅうさせて頂ける道も、段々開けてくるようになるのでございます。
   どうぞ。